結界が張られたらしい。なんとなく空気が変わった、という程度しかわからないことがひどく心許ない。 それでも結界を作る呪具の種類から、おそらくチャンスは一度で、失敗したら結界内の自分と彼女だけをそのまま閉じ込めて”被害を抑える”ものだということは読み取れた。

刃先がゆらりと光った。頭上の声が静かに響く。

もしかして、のきっかけは首の一箇所だけでなくみぞおちにも輪状の痣ができたこと。 ”これ”は上下二箇所に噛み跡をつける。

それで気づいたのは、首やみぞおちから上は動かないけど、ずっと足はしっかり動いていたこと。 “これ”に噛まれた跡から上は枯れて、栄養を取ることもままならない。だけど噛み跡よりも下は枯れない。

確信したのはマーガレットに怯えたこと。 覚えているかわからないけど、怖がるというより痛がっていたから、お父さんに呪力の動きを視てもらったの。 尚治さん……正次さんの中の”虫”が、何かを求めて外に飛び出そうとしたような動きだったらしいわ。痛みの範囲からして、もう多分幼虫が巣食ってる。 ”これ”はね、キク科の植物につく園芸害虫なの。

私は”これ”を知っていたのに、本当はこうなる前に気づきたかった、と悔しげな声がした。

いるとしたら多分ここだわ。 刃が、こちらの腹――へそのあたりに触れる。一瞬ひんやりとしたが、直後総毛立つような感覚がした。 何かが逃れようと蠢いている。もういいから逃げて、という言葉は乾いた喉に張り付いて出てこなかった。

ちり、という音。刃が上を、こちらを向いた。 正体は暴いた。もう少しだけ頑張って、よく聞いて。

菊は舞わない。舞わせない。 ”これ”の名前は。 ”これ”の名前は、キクスイカミキリ。呪いの正体は、菊吸天牛! 凛とした声から逃げるように、赤と黒の虫が腹からずるりと這い出るのが見えた。

逃すわけないでしょ、という言葉と同時に虫の首が斬り上げられ。 返す刀で見えない糸を絡め取り、断ち切るような滑らかな剣閃。 頭の奥でばつんと音がして、全身から急激に力が抜けて、そのまま眠気に襲われて意識を手放した。


いつも通り起きて、湯垢離代わりのシャワーと髭剃りをする。 風呂場から上がって体を拭いて、ううむと唸った。首の周りが痣だらけだ。服を着ても目立つ箇所にしっかりある。シャワーのときからここのはもう隠れないだろうなとは思っていたが。

唸っていても仕方ないのでシャツに袖を通しながら、ここ数日のことを思い起こす。

自分は全く面識のない退魔師から筋違いの八つ当たりで呪われ、命の危機にまで陥っていたらしい。下手人は既に捕まり、現在処遇を決めている途中との報告はあったが、おそらく表舞台に戻ることはないだろう。 らしい、というのは呪われてから解呪してもらうまでの10日ほどの記憶が全く戻らなかったからだ。 あの時は病室で目が覚めたときに涙でぐずぐずの彼女を見て混乱したし、なんなら自分が死んで生き返った日とあまりにも似ていてその時の夢かと思った。