キャラクター交流型ウェブゲーム『暗夜迷宮』(2023)の二次創作です。

※途中、ちょっと痛そうな描写があります。


『雨の音がする。 今年は梅雨が長引いているらしく、しばらく部活も室内トレーニングが主だった。 スタミナづくりのためには大切であるが、走り回れないと何か物足りない。 この時期、仕方なくはあるのだが。 ベッドから這い出て窓を見ると、数m先も見えないほどの雨だ。 家の前の植え込みにある紫陽花がかろうじて見えるくらいだった。 これ以上寝ていたら学校に遅刻してしまう。

自室から出てリビングに来ると、両親はまだ家にいた。 「おはよう、勇」 「おはよう」 新聞を読んでいる父さんに挨拶すると、電話の前に座っていた母さんがこちらを見ていた。 「おはよう勇、今ちょうど連絡網が来てて。大雨で今日は休校だって」 「おはよう……部活も?」 「部活もよ。次の人に回しておくわね、ご飯ちょっと待ってて」 母さんの声が電話口の高い声に切り替わるのを聞きながら、朝食を摂ろうと椅子に座って待つ。 今日はどうしよう。宿題はもう終わらせている。自習するにも雨でどこか憂鬱だ。

突如、玄関チャイムが鳴った。 母の電話が盛り上がっており電話で手が離せないのを確認して、玄関に向かう。 もしかして暇になった亮輔が来たのか。 あれ、俺、着替えてたか? 自分を見下ろすと、寝間着ではなく高校の制服を着ている。 着替えてた。ホッとしながらドアを開けると、雨の音が勢いを増した。

「こんにちは。約束通り来たわよ」 玄関前にいたのは、如月高校の制服に長いサイドテールの少女だった。 「透子? 亮輔じゃなく?」 「……亮輔くんは今日、外せない用事でおばさんと出かけるって言ってたじゃない。役所だったかしら、終わったら来るかもしれないけれど。 だから自習会は一旦私たちだけ」 「そうか……雨の中大変だな」 そうだったっけ。そうだった気がしてきた。 「私は数学と理科で、なお……なおくんは図工だから、ちょっと道具を貸してほしくて。カッターかハサミが必要なの、貸してくれる?」 聞き慣れない名に戸惑っていると、彼女の後ろからランドセル姿の少年がひょこっと顔を出して頭を下げた。 小柄な子だ。亮輔と同い年か、少し下くらいだろうか。 家に上がってもらって洗面所に案内しながら、ハサミとカッターを探していたら「テーブルに出しておいたわよ」という母さんの声がした。 「なおくんって透子とはどんな……」 そういえば弟がいるって聞いたことがある。そう、ふと思い出した。 「ええ、弟は二人いたわ」 やはりそうだった。会ったことがなかったからわからなかった。歳が離れていそうだから、「なおくん」は下の子だろうか。 「こんにちは」 軽くかがんで挨拶をしてみたが、彼は無言でじっと見つめてくる。もう一度「こんにちは」と促してみたが、また頭を下げるだけだった。 「母さん、透子と弟さんが来た。お茶ってどこだっけ」 「ごめんね、手を離せないから出しておいて。キッチンにあるわ」 透子は母さんに挨拶をしたが、「なおくん」は相変わらず黙ったまま頭を下げていた。 出したお茶に手を付けない二人を横目に、数学のノートを取り出す。 父は新聞を読み終わったのか、テレビを見始めていた。 透子がわからないという定理を使った計算を教えながら、「なおくん」を盗み見る。 彼はランドセルから画用紙と千代紙を取り出し、ちぎってみたりカッターで切ってみたり。カッターナイフを使うときはさすがに透子が見守っていたのだが。 何か気になったか、カッターを手に取りかけてぴくりと止まり、首を振りながら手を下ろす透子に首を傾げる。 「なあ、低学年ってカッター危ないから使わないんじゃないのか」 「なおくんは亮輔……くん、よりも、ひとつ上よ」 「ってことは中学年か。もっと幼いかと……事情でもあるのか、その、喋れないことについて」 「……ちょっとね。気にしないで」 母の「ご挨拶は?」という声に表情を変えずひたすら頷いたり頭を下げる彼を見て、念のため母に今はちょっと声が出ないらしいから、と伝えておいた。

しばし、雨の音と、ノートのページをめくる音と、透子が時折する質問や自分の解説の声だけという静かな時間が流れていた。どれくらい経ったか、そろそろ休憩しようかと時計を見た瞬間、母さんの悲鳴が聞こえた。 弾かれるように顔を上げると、「なおくん」が刃の出たカッターナイフを握りしめて立ち上がったところだった。 彼はそのままこちらを凝視しつつ向かって来る。何するつもりだと声を荒げて取り上げようとしたら、ぐ、と後ろから手を掴まれた。 「透子! どうして!」 腕を離そうとしないまま透子も無言でかぶりを振ると、なおはるさん、と少年を呼んだ。 「なおくん」はそのままカッターを構え、自分の手に振り下ろし――やめなさいそんなこと、傷つくような真似は! ああ、どうして干渉できないの、声を、声を出して、この部屋のものになっていれば――』


ざくり、と音がした。 赤いものがぱっと散った。

空気が変わった気がする。 誰かが語る読み聞かせが、途切れたような。 当の「なおくん」は血まみれの手を掲げながら、歯を食いしばって痛みに耐えている。 透子が掴んでいた勇の腕を彼の前に押しつけた。彼が掴んで血がついた部分が焼けるようにチリチリと痛む。 「なおくん」は、そのままカッターを勇の左手の甲に滑らせて、そこに穴の空いた手のひらを押し付けた。 ジュッという音がして、思わず目をぎゅっと瞑りながら呻きながら彼をどうにか引き剥がして――

――次に目を開けたとき、自分の手の甲と目が合った。 いや、これは自分の左手なのかも怪しい。明らかに、血がついた左手だけ成人男性のものに見える。 赤い目玉がぎょろりとこちらを見た。 悲鳴すら出なくて呆然と見つめ返していると、目に入っていた血が落ちたのか、視界がもう一つ増えた。 男だ。こちらを上から、驚いた顔で覗き込んでいる。 歳の頃は父親と同じくらいか、少し上か。黒髪で、顎に髭を生やしていて、筋肉質で。 「……俺……」 紛れもなく、自分だった。自分と目が合っていた。

「透子さん、私はここまでのようです。後は頼みます」 気がつくと、「なおくん」はひどくノイズがかかったような見た目になっていた。 「ええ、任せて。先に起きて、早く治療してもらって」 透子が頷くと、彼はそのまま砂のように崩れて消えてしまった。 姿も声も知らない子どもだが、少なくとも透子の弟ではない、透子がこちらに来たときにはもう亡くなっているのだから、ようやく思い出した、しかし俺は彼を知っている、まるで夢に出てくる知らない姿の知り合いのような。

「透子」 「ええ」 「……これは、夢か?」 「そうよ」 「さっきのは、河井さんで、俺は何者かに夢を操作されていた」 「だいたい合ってるわ」 「あの……俺の両親の姿をした奴らは、敵か?」 「いいえ。ただし、この空間で自由に動けるのはお父さんだけ」

壁や床に散った血の跡から、同じく家が砂のように崩れていく。 崩れた先は、窓越しの外と同じ風景だった。 この家には外なんてなかったのか。

目的があるなら思い出さなくてはいけない。 手の甲の痛みを思い出して、両親の姿をしたものに向けてみる。 視界のコントロールがうまくいかず、酔いそうだ。顔にある目は、一旦閉じた。 父親がいたはずの場所にいた――あったのは、糸で巻かれたような人形だった。 母親は、見知らぬ老女になっていた。