桔梗院福岡支部、退勤時間、淡々とデスクを片付けているとき、同僚からの声が降ってきた。
「お疲れ様です、河井さんもう上がりっすか。僕もそろそろで」 「ああ、はい。お疲れ様です」
にしても、と彼が言う。
「さっき休憩のとき見ちゃったんっすよね……河井さんもお菓子作りやります? へへ、元パティスリーの息子に目をつけられましたねえ……」 「覗き込むのはあまりよろしくないですよ」
「菓子 初心者向け」の検索タブは未だスマホに残っている。隠しているわけでもないが、一応苦言は呈しつつ。
「1月末頃に恋人がこちらに来まして。バレンタインと誕生日を兼ねたプレゼントを頂いたので、ホワイトデーに、その。お返しをしようと。 ちょうど今度、試作呪具のテストで東に行きますので」
軽く頬を掻く。目の前の彼が、顔をパッと輝かせた。
「言ってくださいよぉ誕生日は! 俺、なんか作りますからぁ! あ、まあですね、河井さんならいけますよ。マニュアルをマニュアル通りにデキる人は洋菓子強いっすからね。どれくらい作ったことあります? セルクルとかって持ってますか?」
あれよあれよと乗せられて、とりあえず河井さんのレベルならこれくらいかなとレシピのURLを教えられ、まずは自宅で練習して失敗したら教えて下さいと送り出されてしまった。
砂糖の量、バターの量。 こんなにも多いのかと不安になりつつも、後日彼に確認したところ粉の七割近い量が入るのだという。 ココアとプレーンの柔らかい生地を冷やし固め、交互に積み、ナイフで切って焼く。 初回、練習は少し焼く前の生地が柔らかくなったり焼き上がりにバターが滲んでしまったりと少々出来は悪いか。そのアドバイスを貰った頃には、もう出張直前になっていた。
本番。渡すためにクッキー作りを進め、焼成、冷まして明日のためにパッキングする。
手荷物として飛行機持ち込みは可能、箱ごと手持ちカバンに入れれば――というところで、なんとなく我に返ってしまった。 何をやっているんだろう、出張の前日に。 透子さんのように料理がうまいわけでもない、練習も一度程度、ただレシピをなぞっただけの代物。食べられはする、美味いとは思う、それだけだが。
今ここで食ってしまうか。もう。博多駅か空港でもっと良いものを買ったほうがよいと理性が囁く。
机に手をついたまましばらく考え、一つ大きなため息をつくと冷蔵庫へ向かい、缶ビールを一本取り出した。 プシュッと音を立てて開け、飲む。大きく息を吐く。 それで怒るような人ではないことは理解している。失望もされない。きっと、ただ喜ばれる。だけ。 自我というものを取り戻してから、何度「おそらく自分は面倒な部類の人間だろう」と思ったことか。 それと一生付き合っていくのだなあと思いながら、荷物の詰め込みを再開した。
お疲れ様です。 お久しぶり、というほどでも……はい、お久しぶりです。 一日千秋というわけであれば。
あとで、お茶が飲める場所に行きませんか。 いえ、カフェではなく。その……ホワイトデーとして、土産を。 アイスボックスクッキーなのですが。 昨晩……焼きまして。持ってきました。 よければ、受け取っていただけると。