昨日から隔離病室にいる。違う、目を覚ましてから二日というだけだから正確にはいつからかわからない。 首と腕が完全に上がらなくなり、時計すら見えなくなったので「起きて眠って起きた」という判断でしかない。

立ち上がることと歩くことはできる。ただ、上半身に力が一切入らない。移動はできるがそれだけで、支えてもらわないと前が見えないため一人での行動は許可されていない。 上半身に呪力を回すこともできない。見鬼術や弓の加護その他呪術はほとんど使えない。 こういう終わりか。 こちらとしては正しいことをやっていても、逆恨みを向けてくる者はいつの時代もいる。 ただ今回は自分にお鉢が回ってきただけ。

そうだ、昨日寝る前に依頼をしなければと思ったのだった。言葉を頭の中で整えていたら、ちょうどドアが開く音がした。 足音が近づき、椅子を引いて座る。白く細い女性の手が私の手に重ねられる。 調子はどう、と尋ねる声は想像していたものと違っていた。 視界に濡れタオルと洗面器が映る。看護師が体を拭き清めに来たのか。

いいタイミングだ。 それならついでに終わったら四十八願幸恵という支援部門職員を呼んでほしい、と頼む。 四十八願さんは自分の恋人で自分の今の家をよく知っていること、実家へ送るものと処分するものを教えてあること。最期に一応顔を合わせて挨拶だけしておきたいこと。 そう伝えると、女性はこちらの体を支えるようにして顔を上げさせた。

ヨイナラユキエさんはこの支部にはいないわ。ここは栃木支部じゃない。 ここは西東京支部よ。尚治さん、いま、あなたはいくつまで戻っているの。 知らない名を呼ぶ声は震え、うっすら隈のある目は涙でいっぱいになっていた。

人が来るまでに花だけ取り替えるわね、今日はマーガレットを持ってきたの、と空気を変えるようにその女性がこちらに花瓶を差し出した瞬間。 体が――心臓から腹のあたりにかけて、何かが体内を食い荒らすような痛みを訴えた。

痛みで呼吸すらままならない。 その花を目の前から退けてくれ、と叫んだつもりだったが掠れた悲鳴しか出なかったらしい。 女性はそれでもびくりと震えて花を取り下げた。 途切れそうな意識で、あなたを怖がらせたいわけでも怒っているわけでもない、ただひどい痛みで驚いただけなんだ、という謝罪と弁明の意だけを伝えるとそのまま意識が暗転した。

首とみぞおちのあたりにじりじりとした痛み、みぞおちのすぐ下の腹あたりに違和感がある。 上半身が動かない。唯一動く足を曲げて、どうにか体を支えた。

乾いて張り付いたまぶたを剥がし、霞んだ目で手元のメモを見る。腕の色が枯れ木のような土気色だ。 自分は呪われている、とある。それで記憶が消えてるらしい。 記憶を辿ろうとしたが、あるのは5年分くらい――高校に入る以前の記憶は薄ぼんやりとしていた。大事なものが消えたような感覚。小野弓箭になる前の自分が失われたのか、と頭の隅で思った。これから死ぬなら関係ないか。

体勢を変えたからか、起きたようです、という男の声がして周囲が騒がしくなった。自分がいるベッドの横で、手際よく結界用の呪具が組まれていく音が聞こえる。慌ただしく人が出入りする音と、立てますか、というさっきの人の声。足は動かせます、と言おうとしてもうめき声しか出なかったが、汲み取ってもらえたのか肩だけ支えてもらってベッドから降りた。 結界の中心に座るように指示され、入院着の上だけ脱がされる。今はもう重たい上半身が崩れないように支えるだけで精一杯だ。

女の人の声が知らない人の名を呼んだ。少し黙ってから、正次さん、とぼくの名前を読んだ。 聞こえていることを示したくて、少しだけ身じろぎをする。 とん、という軽い音とともに膝と筒状の何かが視界に入った。膝の主がこっちの頬に手を添えて、顔を上げさせた。 目が合う。同年代か少し上くらいの女の人だった。きれいな人だけど、泣いたような跡とひどい隈があった。 どうして、そうなるまで。